第5章
涙
(1)
一月七日になって、さくらは年がかわって初めての出勤をした。
会社は、四日までが正月休みであるが、今年は五日が日曜日になっており、実際は六日が仕事始めになっていた。
つまり、さくらはみんなより一日遅れての初出勤となった。
一日遅れていても、やはり新年の挨拶はしなくてはならない。
さくらは、これが苦手である。
苦手というより、いかにも形式的なことを口にするのが気恥ずかしいのである。
別に新しい年が来たからといって、自分が年を取ったことを自覚するくらいで、目出度くもなんともない。
例えば、こいつだけには世話になりたくないなと思っている相手がいても、「今年もよろしく」と言わなければならない。
それでも、部長や同僚に、ひとり、ひとり挨拶をして回った。
もちろん、野添や只見に対しても同じである。
ただ、野添には出来るだけ甘えたような雰囲気をみせないように気をつけた。
自分の部屋へ泊めた初めての男であり、ともすると馴れ馴れしい態度が出てしまうことを警戒した。
野添も、その辺りは心得ているのか、「ああ、どうも。こちらこそ」と、立ち上がるでもなく素っ気ない返事を返した。
野添自身も、決まりきった挨拶は苦手なほうなのである。
これと正反対だったのが、只見である。
「やあ」と、わざわざ椅子から立ち上がった。
「おめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
丁寧な言葉で、頭を下げた。
更に、「年があらたまって、一段と綺麗になったね」などと、臆面もなく付け加える。
相手によっては、軽薄そのものに聞こえかねないが、不思議に只見に言われると、なんとなく浮き浮きした気分になる。
「お正月から、お世辞をおっしゃっても、なにも出ませんわよ」
弾んだ声で、只見に調子を合わせてしまう。
そんなさくらの様子を、少し離れた席から野添が見ている。
「どうだい? 今夜あたり新年会でも」
さくらは、チラッと野添に目をやってから、「いいですわね」といった。
只見としては、その後のことを考えているのは明らかだったが、気がつかない振りをした。
「皆さんも、お誘いしますわ」
わざと、みんなに聞こえるような声で宣言するようにいうと、只見の席を離れた。
席に戻って、そっと野添の様子をうかがうと、まるで無視するようにパソコンの画面を眺めている。
新年の二日目では、仕事が忙しいということもない。
幹部連中を始め、営業の人間は、取引先への年始回りに出かけて行くのが主な仕事である。
野添も只見も、昼前には会社を出て行った。
さくらは、休暇中に送られてきた海外からの文書を翻訳したり、訪問客の相手をして過ごした。
セクションの中で、部長や野添たちが不在のときには、それがさくらの役目になっている。
つまり、セクションの中での彼女の席次は、彼らの次に当たるのである。
他の会社でいえば、課長クラスに相当するのであろう。
会社の中で女性社員の数は多いが、さくらのような地位にいる女性は十人程度しかいなかった。
その全てが、独身者なのは止むを得ないのかもしれない。
勤務時間が不規則になり、転勤もいとわないということになれば、家庭の主婦との両立は難しい。
最年長は、本社の経理部次長をしている女性で、もう五十歳に近くなっている。
そんな中で、もっとも若いのがさくらであった。
最初から、仕事に生きがいを求め、この会社へ骨を埋めようという気でいた訳ではない。
自然の成り行きで、こうなっただけである。
それが、よかったのかどうか、さくらにも分からない。
ただ、だからといって後悔をしている訳でもない。
結婚して家庭に入り、夫や子供の世話に明け暮れるのも人生なら、いまの生き方も人生だと思っていた。
それに、少なくともいまの自分には自由がある。
それが、なにものにも代えがたいことだけは確かであった。
来客も一段落し、インターネットの画面を眺めながら、そんなことを漠然と考えていた。
そんなさくらの背中を、ぽんと叩かれ、びっくりして振り向いた。
「どうしたの? ぼんやりして」
腰に手を当てて、野口明美が立っていた。
「ええ、ちょっと考えごとを」
「悩みがあるんだったら、聞いてあげるわよ。経験豊かなお姉さんに任せなさい」
「そんな深刻なことじゃあないんです」
未亡人の明美は、さくらよりは職位は低いが、年上だけに言葉遣いは丁寧になる。
「ねえ、新年会をするんでしょう? あたしも行っていいかしら?」
「ああ、もちろんです。お誘いしようと思っていたんです」
「そう。でも、心配しないで。あなたと只見さんの邪魔はしないから」
「え?」
明美は、未だにさくらと只見の関係を気にしているようである。