第7章
北の旅
(1)
季節は三月になり、さくらの会社でも人事異動のことが話題に上るようになった。
異動の内示は、三月十日である。
広島支店へ転勤してきて、まだ二年目である自分は、今度の異動では対象外だとさくらは安心していた。
もう少し、この街で過ごしてみたい気がするのである。
それに、野添とのこともあった。
誰にも邪魔されず、二人だけの秘めやかな交際を続けていたい。
あれ以来、二人の愛は急速に深まっていった。
どちらかといえば、さくらのほうが積極的で、まるで妻になったように甲斐甲斐しく野添の世話をした。
以前は、友だちが結婚すると聞いたときは、いくら好きな相手でも、毎日その世話をするのは大変だろうなと思っていた。
相手の好みを頭において、毎日の献立を考え、食事の支度をすることだけを考えても、ため息が出そうな気がした。
ところが、結婚をしてなくても、野添のために食事を作ることが、想像以上に楽しいことだとさくらは気が付いた。
さすがに、弁当までは作らなかったが、夕食はほとんど一緒にするようになった。
そのこともあって、常連のように加わっていた会社での飲み会にはあまり参加しなくなった。
もちろん、只見とも会うことはない。
「最近、妙に冷たいな」
只見が言っても、「そんなことはないですわ」と軽く受け流していた。
もっとも、いくら隠していても、同じ会社にいれば二人の親密な様子は、どことなく分かるものである。
特に、女性の目は誤魔化せない。
「野添さんと、いい線をいってるようね。絶対に、あなたは只見さんが好きなんだと思っていたけど、あたし、間違っていたのかなぁ」
一緒に買い物に行ったとき、野口明美がそう言って口惜しがった。
その只見も野添も、広島にきてから三年を経過している。
どちらが転勤になっても、特におかしくはないと思われた。
「異動のお話はないの?」
月初めに、野添が泊まりにきたとき、さくらは聞いた。
「どうかな。あっても不思議ではないけど」
「もし、転勤になったら、どうするの?」
「どうするって、行くしかないだろうね。この会社にいる限りは」
「そんなの嫌よ」
さくらは、裸の乳房を押し付けた。
「あなたに会えなくなったら、あたし毎日どうしていいか・・・」
「そうは言っても、一緒に転勤させてくれる訳でもないし」
「あたし、この会社を辞めようかしら」
「えっ?」
驚いたように、さくらを見る。
「辞めて、あなたについて行くの。お嫌?」
「嫌じゃあないよ。嬉しいけど」
「嬉しいけど?」
「ああ、せっかく苦労して、ここまでやってきたのにもったいないと思うな」
「それは、あたしも思うけど。でも仕事か、あなたかって言われたら、いまのあたしは・・・」
そこまで言うと、野添の胸に唇を押し付けた。
「絶対に、あなたをとるわ」
「さくら・・・」
野添が、さくらの顔を両手で挟んで上向かせ、そっと唇を合わせた。
「あなた・・・」
そう呼びかけることが、最近では普通になっていた。
両腕を伸ばして相手の首に巻きつけ、さくらは自分から唇を開いて押し付ける。
「あたし、奥さんにして欲しいなんて言わない。でも、どこに行っても、あたしのことを忘れないで」
「もちろんだよ。それに・・・」
唇を離してから、野添はふと笑った。
「まだ、転勤が決まった訳でもないんだよ」
「そうね」
思わず、さくらも笑い出した。
「必ず、転勤になると決まっている訳でもないのね。おかしいわね。あたしって、いまから心配して」
「そうだよ。広島支店には、五年も六年も転勤しないでいる奴だっているんだから」
「ふふ・・・。でも・・・」
さくらは、野添の耳を柔らかく噛むようにして言った。
「それだけ、あなたのことが好きなの」
そう言うと、熱い息を吹きかけて、ぴったりと体を寄せた。