第9章
終章
(2)
「野添さんが・・・亡くなったんですか?」
さくらは、信じたくないことを尋ねた。
「そうです。お気の毒ですが」
「どうして? どうして、そんなことに・・・。あの人、三日で帰ってくるって言ったんです。明日は帰ってくるんです。亡くなったなんて、そんな・・・それって嘘ですよね」
動転して、まるでうわ言のように、さくらはしゃべりつづけた。
それを、相手の警察官は、辛抱強く黙って聞いていた。
「明日、あたしは空港へ迎えに行くつもりなんです。お土産も、今日か明日には届く筈です。小樽のガラス工場で作られたワイングラス。そのグラスで、ふたりで乾杯する約束なんです。そのために、もうワインも買ってあるんです」
明らかに、そのときのさくらの精神状態は、普通ではなかった。
携帯に向かってしゃべりつづけている顔には、涙をこぼしながら、不思議に微笑さえ浮かべていた。
信じ難いことを、信じまいとする気持ちが、誰に聞かせる訳でもない言葉を次々と生み出している。
だが、それも、警察官の冷静な声で現実に還らせた。
「ご遺体は、前の奥さまが、お引取りになられるそうです」
それを聞いて、押さえていたものが、一気に噴き出した。
大きな声こそ上げなかったが、とめどなく涙があふれ、せっかくの化粧も全て落としてしまった。
「どうぞ、元気を出して下さい。自分は、小樽南署の菅沼といいます。もし、お力になれることがあったら、遠慮なく電話を下さい」
さくらが、複雑な関係にあると知りながら、親切に言ってくれた。
電話が切れると、ベッドに顔を押しつけて泣いた。
今度は、声を上げて泣きつづけた。
そのベッドには、まだ野添の匂いが残っているように思える。
涙も、枯れ果てた頃、さくらはようやく顔を上げた。
緩慢な動きで体を起こすと、再び電話を取る。
会社へ電話をすると、体調がすぐれないので休むと伝えた。
電話に出たのは、同僚の女性社員である。
「分かりました。支店長に、伝えておきます。どうぞ気を付けて下さいね」
まだ、会社へは野添の訃報は伝えられていないらしく、なにも言わなかった。
そうであれば、さくらが伝えるべきかも知れなかったが、敢えて口にしなかった。
自分が、最初に知っていたことを不思議に思われることよりも、それを言うことによって、改めて野添の死を確認することが怖かったのである。
それに、会社という組織の中の野添と、自分だけの野添とは一緒にしたくないという気持ちもあった。
電話を終えると、大急ぎで支度を始めた。
「小樽へ行かなきゃ・・・」
そう思った。
さっきの電話では、遺体は前の妻が引き取ると言っていた。
できれば、自分が引き取って、葬儀をしてあげたいと思った。
それは、止むを得ないことかも知れない。
離婚したとはいえ、何十年も夫婦として培ってきた絆は、そう簡単には解消されないのであろう。
かっての妻も、そうすることが義務だと感じているに違いない。
しかし、さくらとしては、その前にひとめでも野添の顔を見たい。
できれば、この手で抱きしめたいと思った。
そのためには、一刻も早く小樽に行かなければならない。
時刻表を調べてみると、十時発の便があるが、これからでは間に合わない。
その次は、十二時三十分発である。
これに乗ると、午後二時過ぎに新千歳空港に着く。
広島と新千歳の便は、一日に二本しかなかった。
パソコンを開いて、航空券の予約状況をみると、まだ空席があった。
取り敢えず予約をしておいて、部屋を出ようとしたとき、電話が鳴った。
「具合が悪いんだって?」
電話は、只見からである。
「ええ」
「実は、大変なことになったんだ。さっき、北海道の警察から電話があって、野添さんが交通事故に遭ったらしい。それで、お亡くなりになったということだ」
さくらは、返事もせず聞いていた。
「もしもし? 聞いてる?」
「はい」
「それで、遺体は別れた奥さんが引き取って、葬儀は明日だそうだ。支店長と僕が行くことになったんだけど、君もどうかと思ってね。いや、君は野添さんと親しかったから」
「あたし、これから小樽へ行きます」
「えっ? 小樽って、どうして知ってるの?」
「すみません。飛行機の時間がありますから」
それだけ言うと、一方的に電話を切った。